WORKSHOP TITLE

夏への扉 日記をつける、写真をとる

TEACHER

金川晋吾先生

写真家

REPORT

<これはななめな学校コーディネーター細谷によるレポートです>

“ワークショップが開催された6/6~7/31の約2か月間、参加者は日記と一枚以上の写真でその日の記録をつける。当日中に書けない日があったら、後日振り返ってでも書く。必ず全ての日の記録を残す。その記録を、8/28~9/12の成果発表展にて展示する。”

事実だけをみるなら、それがこのワークショップで行われたことの全てであると言い切ってしまっても過言ではないでしょう。

ただ、このワークショップはその進め方に大きな特徴がありました。まず、授業が始まる前には上述したこと以外に明確に決まっていたことはありませんでした。例えば、金川さんとの事前打ち合わせの際には、参加者の日記をワークショップ期間中に公開する(誰でもリアルタイムで参加者の日記が読める状態にする)ことも視野に入れていましたが、決定事項とはせず、ワークショップが始まってから参加者と決めることにしました。

それは金川さんもコーディネーターである私もここまでパーソナルな部分を扱い、かつそれを公開するというワークショップが初めてで、しかも写真家のワークショップで「写真と日記」と謳いながらも「日記」に重きを置いていそうなこのワークショップにどんな人が参加してくれるのか(写真に興味がある人なのか日記に興味がある人なのか/日記を書き慣れた人なのか全く書いたことのない人なのか/ブログやSNSなどで自分のことを対外的に表現することに慣れている人なのかそういった経験がない人なのか、など様々な側面でどんな人が参加するのか)が全く想像できていなかったからです。

もう一つの試みとして参加者募集前に金川さんと私で「往復書簡」のやり取りを行い、noteにて公開しました。理由はいくつかありましたが、私としては「参加者の皆さんと一緒に作っていくタイプのワークショップなのだ」と表明しておかないと不安だったというのが大きかったです。私がまだ見ぬ参加者に対して一つだけ書いたメッセージは「自分と違う価値観や考え方に共感する必要はないけれど、共感できないことに対して(否定するのでなく)理解しようとする場にしたい」ということでした。このときは本当にどんな参加者が集まるのかわからず、踏み込んでそのくらい書かないと不安だったのです。

(結果的に我々の空気感やワークショップへの思いを、noteを読んで下さった皆さんに感じ取ってもらえたのではないかと思います。ちなみに参加者のうち事前に往復書簡を読んでくださっていた方は7割程度だったと記憶しています。)

ワークショップは全5回に渡って行なわれ、初回は金川さんによる自己紹介でした(各回の詳細なレポートは往復書簡にあがっていますのでそちらをご覧ください)。

そして、この日から日記と写真をつけていくことが始まりました。金川さんも参加者の一人として日記をつけました。

ワークショップ二回目までの期間も不安はありました。まずは参加者と金川さん+私だけがお互いの日記を見られるように設定したのですが、順調に日々の記録がつけられていく参加者もいれば全く更新のない参加者もいて、数名はもうやめてしまうのかもしれないととても心配したことを覚えています。

しかし、二回目のワークショップに参加者が一人も欠けることなく集まり、ワークショップの前までには皆さんの日記も更新され(別のファイルに書いていて、見直してからまとめてアップロードされた方や、2回目のワークショップの前にまとめて2週間分を一気に書いた方もいらっしゃいました)、とても安心しました。

この回にて、参加者との話し合いの結果、ワークショップ期間中は一般公開しないこと(ただし、普段noteやブログなどで発信している方はそちらで自分の日記を公開してもOK)を決めました。

「普段日記をつけておらず、このワークショップをきっかけに始めたいと思った」という方が数名、「日記はつけているけれど、対外的に自己発信したことはない」という方が大半、「日記を公開したことがある」という方が数名という参加者の構成で、まずはタイトルにもある”日記をつける、写真をとる”を「続ける」ことを最優先に、余計なこと(匿名の視線にさらされること)を気にしなくてよい枠組みが出来上がりました。

とはいっても、参加者同士も皆さん全くの他人であり、顔が見えている関係とはいえ、書けることと書けないことをそれぞれが自分の中でジャッジし、葛藤しながら記録をつけていく日々が続きました。

記録をつけながらの心情の変化は参加者それぞれで異なりますし、それは本人にしかわからない部分です。ですが、コンスタントに毎日記録が積み重なっていく方がいる一方、更新が止まっていたり、文章量の多かった参加者が急に一文だけになったり、何かしらぶつかったり葛藤したりしていることがあるんだろうなと推し量れる場面もありました。

そして、私にも心境の変化があり、私も参加者の一人として日記をつけることにしました。当初はこのワークショップを客観的に俯瞰で見る立場の人間が一人は必要だと考えており、私は参加者にはならないつもりでした。しかし、互いに日記を読みあえる関係だからこそ、少しずつ自制が外れていくようなところが参加者にあるような気がして、その中に“俯瞰的”な立場をとる人間が紛れていることに違和感が生じたのです。このワークショップの閉じられた空間においては全員が対等でないといけない、そうでないと参加者からの素直な言葉を阻んでしまうのではないかという懸念を感じ出したのです。

 

全五回のワークショップは参加者の日記に一通り目を通したうえで、金川さんが気になったトピックを取り上げてその日のテーマとしつつ、自由にお互いの感想を言い合ったり時には悩み相談のようになったりしながら進みました。その際の特徴として、日記の中でも5回の対面のワークショップにおいても、語り手本人から発せられた内容以外については特段踏み込まないという関係性があったように思います。もちろん一つの事柄について深く掘り下げていったり、突っ込んで質問したりはしましたが、唐突に全く関係ないことを聞くような場面はなかったように思います。なので、年齢も仕事も家族構成も日記に書かれていなければわからず、それぞれのある部分については深く知っているのに、ある部分については全くわからないという不思議な関係性ができました。しかし、自己開示していない部分(本人が意図的にしたくない、してもよいがこの期間中に全くそのことに関心がないため触れられていない、のいずれにせよ)について何も知らなくとも、この場での人間関係には全く問題は生じず、知らない部分が沢山あっても「ある部分については深く知っている」ということがとても親密な関係性を作り上げました。

参加者の皆さんの日記には当然ながら個人的な事柄が記されたわけですが、こういった機会がなければ本人の中で消化され「無かったこと」にされてしまったかもしれない些細なことが記述されたことはとても重要で、そういった普段なら自分の中で押しとどめてしまうことの中に社会の構造的な問題や無意識に固められているイメージ(「母」とはこういうものだ、「男」とは、「女」とは、「夫婦」とは、「カップル」とは、「大人」とはなど様々なイメージ)に対する疑念、そのイメージから自分が外れている(と本人は思っている)ことに対する外からの視線への恐れなど様々な社会的政治的な問いや考えるきっかけも含まれており、金川さんが「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムのスローガンをひかれるなど示唆に富む内容が多くありました。

また、日記に「他人」を記述することに対する迷いもワークショップにて語られました。他人のことを記述するとき、そこには書き手の眼を通しての「その人」しかおらず、どんなにかんばってみても本当の「その人」はいない。そしてその日記が公開されてしまうと「その人」は弁解することもできない。関係を良くしたいと思うが故、「その人」のことを考え、書きたいと思うのに果たして書いてよいのか、誰のことも傷つけずに愛すべきたくさんの人たちのことを日記に書くことは出来るのか。そういった迷いは、最終的に「公開すること」が決まっていたからこその葛藤でした。

 

参加者の写真もそれぞれに個性がありとても面白かったですが、写真をメインで扱ったのは五回目(最後)のワークショップだけでした。写真をトピックにしたのが最終回になってしまったのは、日記と写真では性質が違うということが大きいでしょう。日記が自分の内側と向き合い、さらけ出す性質がある一方、写真は自分の目に映る外側の世界の記録です。写真に興味があり参加してくださった方もいましたが、このワークショップでは写真も「プライベートなもの」として取り扱っていたので、皆さんまずは自分と向き合うこと(自分の内側)について考え、その結果、ワークショップは日記の話を中心に進んでいったのだと思います。一方、最終回は「成果発表展」に向け、展示の内容や展示物についての話が主だったので、外向きなメディアである写真についてフォーカスしました。

 

成果発表展では参加者それぞれの写真を壁面に展示し、日記は冊子(本)にして中央のテーブルに一列に並べました。展示する写真は参加者と金川さんで相談し、枚数や大きさ(一枚をどういったサイズにするか)や写真のセレクトを決めました。日記は冊子化するにあたり文章の校正をし直してもよい(参加者同士なら見せられたけれど、発表展には出したくない内容があれば削ってよい)こととし、写真も変更したり削ったりしてもよいこととしました(冊子には一枚も写真を載せなかった方もいました)。冊子は参加者本人でデザイン・製本までしてもよいし、データ上のレイアウトまで終わらせて製本は金川さんにゆだねてもよいこととしました。

そういった内容を決めるのと並行して、日記本をまとめて中央に並べ、そこに注目が集まるようにすること(この2か月間の記録がもれなくまとめられているのは日記本だと明確化すること)とそれとはまた別の側面として、壁面の写真展示を見せるという方針が決まりました。検討の段階では、日記の一フレーズを抜き出して壁面に貼るといった案や写真の前にそれぞれの日記を置く案もありましたが、そういったことはせず、日記本と写真を独立させて扱った方がふさわしいのではないかということに金川さんも私もぼんやりと気づいていたのだと思います。

 

成果発表展の初日にはギャラリートークが行われたのですが、その最初に金川さんは「“日記をつける、写真をとる”というのは“サッカーをする、野球をする”というのと同じくらい違うのだということがわかった」とおっしゃっていました。同様のことを参加者はそれぞれに感じたと思いますが、それは2か月間自分で記録をつけてみる行為を通してだけでなく、2か月間他人の記録を見続けことや発表展で展示について考えてみたことなどあらゆる側面から日記と写真について考えたことを通しての気づきだったように思います。特に私は、発表展の展示計画を考える中で、日記と写真を同列に扱うということは、二つのメディアを同じように扱う(例えば、写真も言葉も同じように壁に貼る)ということではなく、日記と写真のそれぞれの特徴を最大限に活かすように展示するということが、同列に扱うということなのだと感じた瞬間に大きな気づきがありました。

金川さんは「言葉とイメージの両方使うことに関心があったので写真も使ったが、実はお題目としては『日記をつける』だけで良くて、日記をつけることのなかに日々の記録としての写真も含めるようにすれば良かったのだと展覧会が始まってから気がついた」とおっしゃっていましたが、言葉(内面)と写真(外界)の両方で記録をつけたこと、そして成果発表展としてそれらを展示したことはとても重要だったと思います。2か月間の写真が積み重なったことで、写真からも参加者それぞれの個性が浮かびあがってきたと思います。そしてその個性は言葉によって綴られた日記から受ける印象とは少し異なっていたりもして、そのこともまた「言葉と写真の違い」を示唆していました。

トークは(コロナウイルスによる様々な制限もあったため)参加者の方に順番に前に出てきて頂き、金川さんが参加者に質問していく形で進みました。発表展のトークということもあり、日記と写真(主に日記)を公開することについてや、“公開する前提の日記”に「書けたこと、書けなかったこと」が主なテーマとなりました。皆さんそれぞれにこの2か月間の葛藤があって、発表展に際してまた葛藤があってという中で(もちろん、誰に見られようと書く内容は変わらないという方もいました)、参加者の「書かない方が簡単で慎重だし思慮深いように感じるけど、それだけじゃないんじゃないかなと思う。自分に正直なのはその人にとって何より重要なのだという気づきが一番大事なのではないか。」という言葉や、金川さんの「自分で『他人からみたらどうでもいいことだ』と自制してしまうことが実は共感をうんだり、書いてみると肯定されたりするのだと思う」という言葉は、WS参加者にとってもギャラリートークの聴衆にとってもはっとするものだったと思います。

トークの最後には少しだけ「他人の日記を読む面白さとは何か」について金川さんと私でお話ししました。金川さんが他人の日記を読んで「この日記の作者は私だ」と思ったような経験が誰しもに起こるわけではないし、結論はトークの中では出ませんでした(出すつもりもありませんでした)が、トーク終了後にアンケートに「シンプルに、みんな生きている、という自明なことを、あらためて認識するおもしろさがある気がします。みんな生きている、って、よく忘れてしまうので……。」と書いてくださった聴衆者の方がいらして、それは一つの答えだと思いました。

 

14日間の発表展には延べ870人の方が来場して下さいました。そしてその中には丁寧に日記を読み、アンケートに答えてくださった方もたくさんいらっしゃって、その全てにとても重要な気づきや学びがありました。

当たり前のことでありながらアンケートを読んで改めて気づかされたこととして、数名の方が記述されていた「すべての日記の中に、日記を書くことや読むことへの言及があった」「日記の定義は人それぞれ違うはずで、それぞれが日記をどんなふうにとらえているのかが受け取れて面白かった」という内容です。

公開を前提としたうえで、公開の範囲や方法を参加者みんなで決定するプロセスは、「日記とはなにか」(もう少し丁寧にいうと、このWSにおいて自分が記す日記とはなにか)にそれぞれが向き合うきっかけになっていたのだなと思います。

また「日記のなかに自分と重なるところを見つけた」という感想も「他人の日記が面白いと思っていたが、今日参加者の日記を読んでみて『なにかちょっと違うかもしれない、わたしはわたしの愛する人の日記が読みたいのかもしれない』と感じた」という感想もあり、どちらもとてもリアルだと思いました。

「これは様々な環境の設定によりどんな作用が起きるのかという共同実験みたいなものだったのだろうと思いました」という指摘もありました。

このWSや発表展の成果をわかりやすく示すことは出来ません。それはWS参加者や発表展を見てくださった個々人の中で生まれるものであり、それぞれに異なるものだからです。WS参加者は皆それぞれに得るものがあったと思います。それは参加者の日記の中に現れています。しかし発表展を見た方の中には全く興味が湧かなかった方もいれば、深く読み込んでくださった上でこういった試みに同意できなかったり納得できなかったりした方もいらっしゃったと思います。そういった方がいらっしゃるのは当然のことであるし、そういった方からの指摘もまた新たな気づきを生むのでとても大事だと思っています。

だからこそ、皆フラットな中で、悩んだり葛藤したり、それを吐露したり抑え込んだり、気遣ったり理解しようとし、お互いにさらけ出しあいながらも、日記に書かれていない部分は詮索もしないし全く知らないという特別な関係の中で、「ワークショップに参加し、2週間に一度会う」という結節点だけの繋がりで、それ以外の時間は一つとして重なっていない11人の2か月間の記録を展示できたということはとても貴重だったと考えています。

 

最後にその後の展開を少しだけ記載しておきます。

ワークショップの参加者のうちの一人である植本一子さんはワークショップ期間中の日記を「ある日突然、目が覚めて」という書籍にまとめており、取扱のある店舗で購入することができます。

また下北沢にある日記屋月日さんでは植本さんの同著の他に、数名のワークショップ参加者の日記本を取り扱い、販売してくださっています。

さらに日記屋月日さんにて、金川さんをファシリテーターとしたワークショップ「日記をつける三ヶ月」が2022年1月〜開催されました。

日記屋月日の当時の店長である久木さんは成果発表展にお越し下さり「私達のやりたかったことがまさにこのワークショップで実現していて、どこか羨ましい気持ちです。」とのコメントをくださいました。

そして、もう一つ大事なことですが、参加者のうちの数名は今もワークショップの延長として参加者だけが見られるweb上の「場」で日記・写真を続けています(一般公開できる他のweb媒体に移って日々の記録を続けている参加者もいます)。

日々の記録を続けることが大事とは思っていませんし、続ける必要があるとも思っていません。ワークショップ後は自分のためだけに(誰にも見せることなく)続けている参加者もいると思いますし、2か月間は頑張ったけれど、その後は何も記録していないという参加者もいると思います。そのどれもが、参加者それぞれの選択であり、素晴らしいものだと思っています。

ただ、ワークショップ参加者の日記を読みあえるこのweb上の「場」が、自分のための記録を続けたいと思ったときに見守ってくれる仲間のいる場であり、自分の中に押しとどめておくことができないものをどこかにさらけ出したいと思ったときにその感情吐き出せる場として機能している限りは、これからも参加者・金川さん・私の11人だけがアクセスできる特別な「場」として維持していこうと思っています。

Text: Yuta Hosoya

写真

金川晋吾さんのプロフィール

1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。

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